沙耶の唄


制作/Nitro+ 発売日/03/12/26 ジャンル/猟奇サスペンス
原画/中央東口 シナリオ/虚淵玄 音楽/ZIZZ
物語の論理構造/★★★★★ 包括的な官能性/★★★★★
シナリオの筆力/★★★★★ 歌・音楽・効果音/★★★★
キャラクターの精神描写/★★★★★ 声優の力量/★★★★★
キャラクターの造形練度/★★★★★ システム・操作性/★★★★★
背景の造形練度/★★★★ 総合的な演出/★★★★★
総評価/ 優秀作 90
批評記載日  05/10/21




―序文―


てんぷれ


人が人として在り、個人が社会という枠組みに居るためには、一体幾つの「人間」を模倣すればいいのだろうか。

自分を自分として認識する為には自我・感覚・他人が必要であるように、人で人として有るためにも多くの「原型」を必要とする。

それは例えばこちらを見据える双眸であったり、流れる髪から覗く耳朶であったり、大地を蹴る二本の脚であったりするわけだが、それらはどれも外面的・物理的な「人間」要素であり、そこに内面としての「人」が介在する余地はない。
ある人物が、少なくとも他者と意思伝達が可能な方法を会得し、極通常の感性と経験を所持しているならば、「人」を「人」と定義する際には「心」という概念の必要性を要求するだろう。

だが、実際の所、「人」が「人」という抽象概念のみで構築されない限り、優先されるのは心ではなく身体であり、その逆はない。

人は、常に人間としての「身体」を想定して他者とコンタクトを取る。

姿が見えない連絡法……例えば電話やメール、チャットといった、相手の像を視認せずに行われるコミュニケーションも、閾下では常に「人間」という造形をした存在と対話しているという前提条件が無意識のうちに制定されている。
間違っても受話器の向こう、ネット彼方にて応答する相手が犬や猫の姿をしていると想定する事は無い。

斯様にして、人は常に人という像に合致する存在のみを同胞とし、それ以外の像を持つ存在を決して人と等しい位置に在ることを認めはしない。

犬や猫を人が飼い人の生活基準に引き揚げようとする事は多々あれど、犬や猫と同じ生活を営む事を人が想像すらしないことから判るように、人は人と規定する像とそれを保持する習俗に異常な程に執着を持ち、自分と同じ姿、立ち振る舞いを行う者にのみ肩を並べる事を許諾する。

では、それらを外部に見いだせなくなった人が居たとしたら、その人物は如何なる行動に及ぶのであろうか?

「沙耶の唄」とは、人のあるべき像が外界から喪失した男が歩む物語である。





―概要―


[Nitro+]のHPから抜粋


爛れてゆく。何もかもが歪み、爛れてゆく。

交通事故で生死の境をさまよった匂坂郁紀は、いつしか独り孤独に、悪夢に囚われたまま生きるようになっていた。

彼に親しい者たちが異変に気付き、救いの手を差し伸べようにも、そんな友人たちの声は決して郁紀に届かない。

そんな郁紀の前に、一人の謎の少女が現れたとき、彼の狂気は次第に世界を侵蝕しはじめる。





―見解―


視覚の影響力


さて、今回の批評は「沙耶の唄」を既にプレイしている人が読むことを前提に作成されている。
故に、未プレイの方が見ると何を言っているのか良く解らない文章も有ると思われるが、その点はご容赦願いたい。

「沙耶の唄」は、現今の萌ブームの波に全く乗じた気配の無い、非常に粛々とした雰囲気で纏められたゲームである。
加えて、そもそも主人公の境遇が常軌を逸した設定となっており、そこから巻き込まれていく周囲の人間達の悲壮、怒り、戸惑いといった陰鬱な情景の数々は、万が一にも一般向けの作品として容認される事はないだろう。

また、縦横無尽に描き出されるグロテスクな映像の数々は、それらに免疫の無い人にとっては正視に耐え難い事甚だしく、登場してくる人物も次から次に惨殺されていく為、最大級の世辞を用いたとしても、そこから「R18」の文字を抜き去る事は困難を極める。

しかし、物語の展開は非常に繊細に組み立て・連接されており、その文章は凄惨なCGと縺れる事によって艶麗さすら感じられる趣がある。

へっぽこライターが業界の過半数を占めるこの斯界に置いては、これだけのクオリティが発揮されているシナリオは希だ。

だが、そんなシナリオにも幾つか疑問に思ってしまう箇所がある。

 

先ず、第一に想い浮かぶのが視覚の驚異的な影響力に関してだ。

本作の主人公の病状は、面白い事に視覚異常が全ての発端となっている。
視覚が回復(この先の展開からすると果たして回復という言葉が的確かどうかは判らないが)するまでは、残りの感覚、即ち聴覚・味覚・嗅覚・触覚に異常は見られない。

即ち、視覚が回復するまでは残りの感覚は至極正常に機能していたことが判る。

だが、視覚が回復し、目に見える景色がおぞましい肉塊にしか見えなくなった時、それに連動するようにあらゆる感覚に異常が来すようになる。

味覚は視覚像をそのままトレースするように変性し、嗅覚は肉塊から漂ってくる腐臭の如き臭いを感知し、聴覚は呻きと雑音を混同させたような音を捉え、触覚はすべてのモノを粘液と肉片の肌触りしか感じ取れなくなっていく。

五感すべてが歪曲され、全ての感覚が生理的な嫌悪感をもたらす情報へと姿を変える……。
これは地獄が体現した彼の如き現実であり、主人公にとっては悪意と呪詛の渦に放り出されるに等しいだろう。


だが、ちょっと待って貰いたい。

考えてみればこれは少々おかしくないだろうか?

前述の通り、主人公は「視覚が回復する迄、他の感覚は正常だった」という事を明言している。
問題なのは視覚の快復後の話であり、この視覚の回復及び視覚の使用をすることによって、視覚と連動するように他 の感覚に異常を来すようになる。

つまり、視覚像を感得することによって、初めて他の感覚が狂い出すという事だ。

だが、実際にこんな事……即ち視覚情報が他の諸感覚に影響を与える事が起こりえるだろうか?


感覚間干渉


可能性としてはあるだろう。

例えば、赤い色を見れば熱さや暖かさを連想し(暖色)、青い色をみれば何やら涼しげな印象や寒さを感じる事がある(寒色)ように、視覚情報が触覚情報に干渉する事は日常茶飯事に生起しているからだ。

据えた匂い(嗅覚)を嗅ぐと酸味(味覚)を覚え、聖歌を聴けば純白の衣を纏った歌い手を想像するように、感覚と感覚は独立しているわけではなく、常に他の感覚に干渉し影響を与える。

しかし、それはあくまで可能性程度の問題であり、現実に逼迫する問題ではない。

通常、これらの感覚同士の干渉は、精々「印象」程度のレベルでしか表象しない。

例えば、植物性の材料で全て調理されていながら、外見は肉に見せかけている精進料理や中華料理の一種が存在するが、これはあくまで外見(視覚)だけが肉であり、味(味覚)と触感(触覚)はどうやっても野菜にしかならない。

これらの料理を食べて、肉の外見通りの味と感触を得られる人間は、絶対居ないと断言できる。

何故ならば感得される要素が異なり過ぎるからだ。

もう少し実生活で良く起こる現象を例に挙げるならば、調理品の腐敗がある。

夏場なら誰もが良く体験してしまう事だと思うが、折角調理した料理が上手に保存できずに痛んでしまう事が良くある。
外見上は特に変化が無くても、これらの腐敗進行中の料理には明らかな異臭が漂っている為、先ず食べる前に嗅覚から危険信号が出され、縦んばそれを無視して胃に流しこんだとしても強烈な味の変性に味覚が耐えきれず、すぐに吐き出してしまう。

これも、視覚像から受け取ったイメージと実際の味の感得には断絶が生じており、正常な外見の料理通りに味覚や嗅覚は左右されない事を表している。

それほどまで人間の五感は各個明澄に誘発されるのであり、想像と実感が異なった場合は各自の感覚が即座に反応する。

感覚とは一種の生理的自己防衛機能であり、諸感覚は幾多の危機に対応する為に授けられた「部門」に等しい。
一つの事象は適所の「部門」によって情報解析され、それが人体にとって有用か否かを判定し、「部門」ごとに出された情報を統合する事によって、その事象に対する対応が決定される。

しかし、本作の主人公は全ての感覚が視覚の隷属化にあるかのように、視覚異常が全ての感覚に歪みを生じさせてしまっている。
つまりは、各個分立した諸感覚の特性と役割が発揮される機会が失われているのだ。

確かに、人間が収集する情報の9割は視覚に依存すると言われている。
人が作り出す人工物・色彩の全ては、ほぼ全て視覚を優先して作られていると言っても過言ではないだろう。
だがしかし、だからといって視覚が全ての情報を独占的に牛耳っている訳ではない。

ある感覚Aが感覚Bに干渉する事はあろうが、感覚Aの判断が感覚Bを圧倒することは困難だ。
それ故に、我々は外見上は問題ないが中身は腐った食べ物を嗅覚の情報を優先して、口に入れる直前で止める事が出来るし、一見すると同じ燕尾服を着た演奏家達が指揮者の変更によって曲調を変える事を聴覚を通して理解出来るのである。

故に、視覚が他の感覚を圧倒してしまうという今作の説明には、私は些か承伏出来ないのである。

なお、催眠術などで暗示をかけ、棒のような物体を「焼けた鉄棒」として皮膚に押し当てるとみみず腫れが生じるという話があるため、これを主人公の病理と重ね合わせる事を考える人もいるかもしれない。

だがこれは

・「この実験における暗示の対象は視覚のみではない」

・「完全な火傷ではない(この手の火傷らしきものはすぐに消えるらしい)。つまり影響力は主人公のそれとは比較にならないほど軽い」

・「暗示という限定された時間枠での出来事ではなく、主人公の日常にて異常事態が生じている」

・「暗示のように精神的要請ではなく、純粋に物理的(脳)な要因として作中に表現されている」

という四点の相違から、私は「別物」として判断した。


視認識の覚悟とその動機


では、ここでは一歩譲ってこの視覚異常が全ての感覚を狂わせるだけの力を持っていたと仮定しよう。
だが、そう考えると、今度は主人公の行動そのものがどうにも不可解に思えてくる。

作中を見ての通り、根本的には視覚の影響を直に受けることによって他の五感に狂いが見られるという事は、当事者たる主人公の証言によって保証されている。
それならば、「眼を閉じて生活してしまえば良いのではないだろうか?」という考えが浮かぶ。

あらゆる原因が視覚から収集される情報によるものならば、その原因たる視覚を遮断してしまえば、全ての悪夢は消滅するだろう。
像さえ見なければ、諸感覚は視覚からの浸食を回避する事が出来るのである。
これほど(実行する上で)明確単純な解決方法は無いだろう。
眼が見えなくなることで失うモノは莫大な量になるだろうが、それによって親友や学友、あるいはそれらを取り巻く社会全体を敵対視してしまうという実情が回避出来るならば、天秤の皿はどちらに傾くかは容易に想像が付くと思う。

それとも、狂った視覚と社会的繋がりを秤にかけた場合、狂った視覚を所持して生きていく事に固執するだけの動機が主人公にはあるのだろうか?
少なくとも作中では、全てを犠牲にしても視覚を維持しなくてはならないといった強烈な動機は語られていない。

「見えるから、我慢して見ている」

プレイヤーが見る限り、視覚に対する執着は精々この程度だろう。

何より、視覚異常によって諸感覚が汚染されつくして、自殺というある意味最強の問題解決方法すら試みようとした人間なのだから、視覚くらい捨てる覚悟の一つや二つは持っていてしかるべきだと思われる。
だが、実際には状況は最悪の半歩手前まで進んでしまったのだから、この行動にはどうにも頭を抱えてしまうのである。


変化と不変


二つめの疑問点は、主人公が何を判断材料にして周囲の風景を歪曲させてしまっていたのか?という点である。

「そんなのは対象物に決まっている」という、至極当然の反応が返ってくると思われるが、私が言いたいのは諸物の輪郭云々では無く、その「歪曲を促す要因」に関してだ。
こう言うと、「枝葉末節の問題を挙げなくても良いだろう」と言いたくなる人もいるだろうが、これはかなり重要な部分である。
それこそ、「沙耶」が別次元から来た生物だとか、種を横取りする形で支配するだとかいう設定は、別に物語の論理構造に何ら問題を与える事は無いから別段問題ないが、視覚の歪曲要因は物語の要所要所で矛盾を引き起こしている為、触れぬわけにはいかない。

では、何が拙く、何が矛盾にあたるのだろうか。

主人公は、知っての通り視覚に異常を来している。
彼の見る世界がどれだけおぞましい姿に変換されているかは、今更言うまでも無い。

しかし、その歪んだ世界の中で唯一変わらぬ姿で佇む者が居る。

「主人公」である。

彼は、自分を構成する要素が、異形となってしまった友人達と同じ「人」で有るにもかかわらず、自分自身の姿は全く歪曲されずに視認している。

主人公は、隣人や世界が異形化したとということをしきりに述べているわけだが、自分自身が異形化して事に関しては全く触れていない。

これは、「する必要がなかった」と考えるより、「異形として見えていなかった=正常な人間の姿として見えていた」と推測される。
その根拠は以下の通りだ。

第一に、病院で眼を覚ました時に、周囲の異常を述べていたが自分自身が異形化したとは全く触れていない。
通常、意識があり視覚が働いているならば自分自身の体を見る機会など厭でも訪れる。
だが、主人公はそれに関しては何も応えないばかりか、病院で出会う「沙耶」を自分と同じ姿をした人間として捉えている。
つまり、主人公の身体は他の人間と同じ異形としてでは無く、人間の形として視認していたことが判る。

この件に関して更に有用性があるのが、唯一、主人公と同じ境遇を体験した隣人である「鈴見」だ。
彼は、自分の視覚が異常化した後、自分自身の肉体に関する感想は全く抱かず、専ら外部の異常にのみ注意を専心させていた。
これは、自分の身体を見なかった……という不自然な状況を表しているというより、自分の身体には視覚的に全く変化が無かったと考えるのが妥当だろう。


第二に、主人公は隣人を含む世界を異形化した、と明確に示し、そしてそれに関して徹底的に拒否し続けた事だ。
これは、自分と世界との間に決定的な差異と断絶があった事を示している。

例えば、貴方が他人と握手した時には、特別違和感を感じる事は無いだろう。
しかし、これが犬と握手したり蛸と握手(あれが手か足かという疑問は不問とする)した場合は、何かしらの違和感を感じるだろう。
また、真っ白な服に一点の染みがあった場合は非常に目に付き気になるものだが、その服が泥だらけになった場合もう一カ所の汚れを気にする人間は殆ど居ない。

これらは常に対比の問題として現れる。

人間対人間の握手では、対比目標が同じ人という生物の為違和感が少なくなるが、人対犬の場合は習俗的な関係を省いたとしても異種の存在と触れあっているという、生物的な差異は大きくなる。

また、純白の礼服に一点だけ付いた染みは、他の白い布地にとっては徹底的に異質な面積だが、その一点を塗り消すように服全体が汚れてしまえば、汚れと生地の差異は減少する。

これらはつまり「アクセント」として存在するからこそ異質なのであって、握手にしろ礼服にしろ定例に沿って「在る」ならば差異は少なくなり、当事者の違和感は少なくなる。

今作の主人公は、そういう世界と己の対比を見てみれば判るように、「沙耶」という存在を除外して徹底的に異質……即ち異形の中の「アクセント」である自分の像を外部にまで求め、その世界における「アクセント」が自分では無く世界であると認識してしまったため、結局最後の最後まで異形達と馴れ合わなかったのだと結論づけられる。

もし、自らの肉体が世界と同じ様に異形として捉える事になっていたら、主人公は其処まで苦しむ事は無かっただろう。
己の異形を確認するや発狂、あるいは絶望して自害するにしても、あるいは自らの人間としての像を塗り直し異形の世界に心と共に馴致するにしても、「沙耶」の出現を待たずに物語は急速に終幕を迎えていたと推測される。


幾つかの仮説


さて、以上の事を踏まえて見れば少しおかしな事態に気付かれるだろう。

異常な視覚を有した主人公だが、自分自身の姿を確認する事に関しては不変である……と言うことは、彼は何処から他人と己を区別していたのだろうか?
いや、正確にいえば何処から他人を異形として規定し、何処から自分は「定形=正常な人の造形」だと区別していたのだろうか。

造形的な差異は個人個人により大なり小なりあるため、純粋に他者の骨格的・身体的造形に置ける差異から、異形と定形を区別しているという事は考えがたい。
もし、そうならば、主人公の造形だけが正常な人の形を保って視認できるというのはどう考えても不自然だ。
つまり、この時点で実は視覚情報による造形認知は行われていないという事が判る。
主人公の独白的な説明は、この時点で大きな矛盾点を抱え込んでいた事が判る。

では、視覚ではなく嗅覚によって自他の判別を行っているのだろうか。

尤も、主人公の感覚が狂ったのは嗅覚が原因では無いのだから、この説はそもそも論理的にずれているのだが、其処をあえて無視して行きたい。

優れた嗅覚を持つ人は、個人個人の匂いを識別して、匂いと対象を結びつける事が可能である。
ならば、嗅覚を元に異形か否かの判定をしていたのか……と、仮説の子細を検討する前にこの説はあっさりと頓挫する。
何故ならば、主人公は外部の存在に関してそれが生物だろうと無機物だろうと悉く一緒くたに異形化させているにも関わらず、自分の着衣に関しては全く嫌悪感を示していない……つまり、「正常な形」として認識しているからである。

自分の身体ならば、汗を基本とした多種の匂いの元を発散させているだろうから、そこから自他の区別を付けることは可能だろうが、服は身体の一部では無く、完全な異物である。
無論、その衣服も着衣者から発散させられる体臭成分を含んでいるには違いないだろうが、それならば自宅のソファーやベッドやタオル……兎に角、体臭が移りそうな物体ならば、正常に見えてしかるべきだろう。
しかしながら、主人公の認識において自宅は内外共に腑の砦と化しており、調度品の数々は猟奇的なオブジェとしての形しか成していないため、この嗅覚による自他判断も全く考慮の余地すら無いのである。

では、空間的な遠近……つまり、距離でそれらの認識に異なりが生じていると考えたらどうだろうか?
つまり、この症状を遠視や近視の変形だと考えるのである。
具体的には極近くのものならば定形として認識され、距離が離れると途端に異形へと変貌するという考え方だ。
これならば視覚が異常の主幹となりえるから、無茶な提案ではない。
それどころか、主人公の肉体が定形として認識されるのは元より、服装という非生物的要素に対する定形の認識に関しても無理なく説明が可能となるのではないだろうか?

だが、これも無理なのである。

何故ならば、主人公が包丁や斧を持ったシーンで状況を現したCGが映されるのだが、手に持った凶器は思いっきり異形化している為だ。
主人公の手に直接触れており、しかも肘や肩を移動させる事によって近距離までこれらの凶器は接する筈なので、これでは距離感がまるで役に立たない。
この情景の所為で、上手く行きかけていた「距離感による異常識別」という仮説は跡形もなく粉砕されてしまう。


説明と現状の不一致


さて、こうなると様々な箇所で一気に齟齬が生じてくる事が判る。

自分自身は定形として認識しているのに、他人は異形として見ている事。
あらゆる物体が異形となっているのに、自分の装着品は不変である事……。

この二つの事実によって、主人公は実に都合の良い認識をしている事が判る。

他人は異形、但し自分は定形であり、あらゆる物体が異形にしか見えぬのに、それが自らの装飾品となった場合には異形化から免れる……。

こんなご都合主義的な認識はあんまりである。

物理的要因によってこの様な異常を抱えているにも関わらず、その異常を制定する要因は脳に隷属せず悉く心的印象から来ているとしか考えられない状況は、あまりにも杜撰だし、整合性を失い矛盾が生じる。

この主人公の認識と制定基準が明確にならない限り、どうにも私は不満を覚えてならないのである。



体系的な物語、それ故に美しく


では、私が「沙耶の唄」に対して高い評価をしたのは何が良かったからなのか。

一つは、上に挙げた問題点が非常に明確にされていた事だ。
読むに値しない多くの物語の特徴は、先ず体系的にあやふやな論理構築がされている事、詩文的な表現が欠落している事、人間社会的の柵が描かれず登場人物の感情がマンツーマン(例えば特定のヒロインのみとの会話しか出てこなくなる等)に完結しそれがループ気味な状態になっている事などが挙げられる。

私が上記二点の問題に関して蛇のように執拗な追求をしたのは、逆にこの二点さえ解消してしまえば文句の付けようがない、少なくとも論理的な粗雑さは無くなり極めて洗練された作品として大成している為である。

クワインの言う「全体論=ホーリズム」を喩えに出せば、私の言いたいことは即座に実感してもらえると思う。
「沙耶の唄」という巨大な命題は、諸命題を結合させる事で一つの命題を成している。
その、構成要素である命題に矛盾を生じさせるものがあるとすれば、それは「沙耶の唄」という命題全てに歪みを生じさせてしまう。
ならば、その歪みとなる命題を改良し、連接する命題に軋轢を生じさせるような事態から回避してやれば、総合命題たる「沙耶の唄」は更なる高みを目指せる事だろう。

そして、上述した二点を検証するために自分自身の余暇と労力と手間をかけて批評したのは、それだけこの作品に対して価値を置いているからに他ならない。
そうでなくては、貴重な思考を易々と巡らすなど詮無き事この上ない。

今作を評価する二つ目の要因は「人間は外面に拘る」という現実的な不文律を余すところ無く見せつけてくれたところだ。

「美女と野獣」等の「心が通えばその姿は関係ない」という空想的な浪漫を謳った作品とは対照的に、異形の存在を克明に表現し「人間とは、対象が人間で無くては受け入れることは出来ない」という異類婚姻譚の凄絶さを徹底的に突き詰めた今作は、リアリズム溢れるダークファンタジーとして大成している。

人は造形としての人を模倣した者しか認める事が出来ず、人の姿をした者のみを愛するという、誰もが持つべき指針として推奨され、同時にあるべき偉人像として崇められるこの人道と博愛の概念からから最もかけ離れた人間の皮相的な感情を剥き出しにして描き、これこそが人間社会で生きる人間達の抱える病理だと言わんばかりの痛烈な皮肉として現されている。

無論、それがライターの本懐であろうと無かろうと、それは与り知らぬ事である。
だが、視覚という一つの感覚を発端とした歪みが、過去から積み重ねてきた現実を滅多切りに引き裂いていく、鋭敏で、率直で、極めて怜悧なその表現は、そういった風刺としての効力を十二分に秘めている。

今まで暮らしてきた家を、長年付き合って来た親友を、学舎で机を並べた学友を、そして今まで生きてきた全ての世界との関係性を断ち切り、「沙耶」のみに安らぎと幸せを求め共に生きていくシナリオなどは非常に残酷で美しく纏められている。

歪曲しきった狂気に浸された世界の中で、ただ一輪の可憐な花を手にするために世界を敵に回していく……そんな限りなく愚かだが、限りなく純粋な想いが描かれた今作は、まさに美少女ゲームでは希少中の希少品である純愛物語に他ならない。

それが如何な血塗れの経緯を歩み、どのように瓦解した結末が待ち受けていたとしても、だ。





―恣意的な感想―


物語の流れ


本作は廃れかけの印象を持つが、未だにその価値は見失われないビジュアルノベル形式で描かれており、シナリオライターの腕が存分に振るえる構造となっている。
実際、この物語は読むことに重点が置かれており、選択肢も極少数でシステム的にも目新しさや十分な快適性が確保されていなかったのにも関わらず、これほどまでに一つの作品として魅せる事が出来たのは、ひとえにライターの技量によるものだろう。

多くの美少女ゲームと比べると、今作は非常に短い時間でクリアすることが可能な為、ボリューム不足を訴えるユーザーが多いようだが、これには私は異論を唱える。

以前から何度も言っている事だが、プレイ時間の長短と満足度を秤にかけるのは正直言って相当の勘違いをしている。
支払った金額分や浪費時間その他諸々の投資に見合う分だけの満足感が得られなかったとすれば、それはプレイ時間の短さ云々に由来するのではなく、ただ単に、クリエイターの腕がユーザーを満足させる事が出来なかっただけ……つまりは、制作者側の未熟な技術の所為であり、ここにプレイ時間という要因が介在する余地は元来無い。

面白い作品は、プレイ時間の長さに制約されない。

10頁で終わる短編小説にも、名作は多く存在するように、短い作品でも面白いものは面白いのであり、それに対し「プレイ時間をもう少し多くして欲しい」という欲求を持つのは、単に「お前ら制作者の腕が足りねぇんだよ」と言う思いを、直裁に宣言することなく遠回しに「プレイ時間不足」いうベクトルに変えて抗議しているに過ぎない。

私にとって、この作品は大変満足の行くモノであり、塵芥のようなゲームを数十本プレイし、何十時間もの余暇を益体無く費やす事と比べれば、その価値は計り知れない。
また、4800円という価格設定にも好感が持てる。


お気に入りのキャラクター


好きなキャラクターは「沙耶」と「丹保涼子」。
対極的に描かれていたキャラクターだが、どちらも自分の信念と想いを貫徹する強さを持っていたので、非常に好感が持てる。
「沙耶」の場合は懸想する相手を想う優しさが、「涼子」の場合は字が現すように涼やかな思考と理知が最大の魅力かと。
男キャラはどちらも女性キャラに引っ張り回されていた観があったので、若干印象が薄いのが残念な所。


音楽・音声・効果音


本作の音楽は、作風に合致させるメロディとなっているため、CG描写や物語展開に非常に迎合した音楽として定着していた。
このゲームをプレイしたことのない人間がいきなりBGMとして聞くとその独特の曲調に何やら奇妙な焦燥感を抱くかも知れないが、このゲームに愛着を持っている人が聞けばあの陰惨な情景と清逸した「沙耶」の姿が相成った、独自の風景を思い起こすだろう。
今作の音楽はまさに「サントラ」なので、ゲーム音楽としては良くできていたと私は感じる。


キャラクター・グラフィック関連


今作のCGは非常に奇妙な対比で構成されているモノが多い。
何せ、背景が血流と汚泥にまみれたような肉腫で埋め尽くされている所に、「沙耶」という可憐な姿で描かれた少女がぽつんと立っているのである。
これら美と醜を率直に同じフレームへ閉じこめたCGは、その決別されたような対称性を顕わにする。
この一見すると限りなく凄惨だが、見方を変えれば壮絶に美しい構図は高く評価すると共に、CG作成を行ったスタッフ達の審美眼に賞賛を送りたい。

また、今作は一般にグロ画像と呼ばれる種のCGが大量に盛り込まれているが、私個人としてはモザイクをかける迄もなく(本作は丁寧な事に、グロ画像が苦手な人の為にCGにモザイクをかける機能がある)特に気分を害する迄も無かった。
そもそも、今作のグロは、言わば必然的・予定調和的に仕組まれたグロ描写、即ち物語には必要不可欠な情景であるため、凄惨だなと思うことはあっても気持ち悪くなる事は無いのである。

むしろ、遊びで人体を解体しているような氏賀Y太の作品や、殺人という行為に遊戯性を持たせているかの如き大塚英二の作品群を見ている方が万倍は気分を害する。
まぁ、早い話が如何なる絵であれグロ画像に生理的拒否反応を示す人はダメだろうが、シナリオ中心にCGが連動しているならばグロ画像だろうがエロ画像だろうが構わないと思っている人には、問題なく受け入れられる描写だと思われる。



Hシーンについて


このゲームは、無っっっっっっ茶苦茶エロい。

そりゃもう、ここ一年プレイしたゲームの中では、恐らく一番のエロティックさを誇っている程にエロい。
私は完全な精神疾患者故、二次元三次元を問わずに一般に人が「エロいなぁ」と感ずる「絵」には殆どエロティックさを感じず、むしろ「キモッ (|||´Д`)」と感じてしまう事が多い真性の「アレ」故、エロシーンには当然のように全然期待していなかったのだが、これは完全にやられた。

シナリオとCGの両面で艶やかさを出す描写が秀でており、久々にエロゲーをプレイしていてドキドキしてしまった。
それはそれで人として何かおかしい気がするが、取りあえずどのHシーンも「これが狂気の世界のエロさだっ!」とでも言うべき制作者の意気込みというか妄念というべきか、兎に角、非凡なクオリティで形成されており、熊公八公のエロ ゲーでは手も足も出ない程優れたHシーンが構築されている。

このエロさ加減は、是非ともエロ目的に作品を作る美少女ゲームクリエイター達に学んで頂きたい所だ。





―総評―


この作品は一部クトルゥフ神話をモチーフにしているらしい為、その筋の人々には今作に対して何らかの異論や肯定があるかも知れないが、私はクトルゥフ神話が名前程度しか知らないため何も言うことは無い。

というのも、それはクトルゥフに興味がある無い以前の問題として随所に、「ああ、この辺りがクトルゥフなのかな」と思える場所はあれど、それらは物語の論理構造に食い込んでいないため、論じる必要が無いと考えているからだ。
言わば、クトルゥフ神話は日常会話レベル、即ち装飾的意味合いとして登場しているだけであり、それ以上ではない。
故に、は「沙耶の正体」や「沙耶召喚のプロセス」はその機微と詳細が証されていなくても物語のマイナス要因へと転じる事は無い。

批評の目録には今作が非常に高い採点をされているにも関わらず、批判的な文章が多く記載されている為、評価しているのか貶めようとしているのか判らなく感じた方もいるかもしれないが、この作品に対して私はかなり敬意を表して批評している。

不備を列挙することによって問題点を明確にし、次回作は更なる高みを目指して貰いたいが故に、私は気に入った作品に関しては厳密に考察して行きたいと考えている。
何故ならば、優れている作品はそれ故に更なる完成度を誇って欲しいというのが、私のささやかな願いであると同時に、制作者を支持する証明でもあるからだ。


ニトロプラスの作品は「ファントム」をプレイしたきり、次作へ手を伸ばす事を躊躇っていた。
「ファントム」はつまらなくは無いモノの、作品としては荒削りの部分が多く、宝石で喩えるのならば原石の如き作品だったからだ。

だがその後、ズルズルと当初のプレイ印象だけを引きずり、次のニトロプラス作品へ手を伸ばすのには随分と遅れが生じた。これは私の完全な失態である。
次回からは、このような過ちを犯さないようにしたいものだ。

この様な作品が作られているのならば、美少女ゲーム業界も捨てたモノではない。
久々にそう思わせてくれる、優秀な作品に出会えた事を制作者一同とこの作品を薦めてくれた盟友に感謝したい。